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のとだより
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学生プロジェクト

震災復興の中で見いだされた「地域の文化遺産」


 2.常徳寺所蔵文書から読み取れること

■才能豊かな住職、得住
 加賀藩では、藩の農政における十村制度が整備されることにより近世的な行政区画が出来上がっていき、藩末期には、能登口郡の一つである羽咋郡は、押水郷・邑知郷・志賀郷・富来郷の四郷となりますが、常徳寺がある鹿頭は富来組に該当し、十村の組支配を受けました。
 その常徳寺で幕末期から明治初年にかけて住職であった賢殊院得住の経歴が『富来町史』(富来町史編纂委員会偏、1977年)に載っていますが、得住は天保6年(1835)の寮司から、擬講、嗣講に進み、文久元年(1861)には第16代講師として宗門の最高学匠となりました。この経歴を見ても、得住がいかに才能豊な人物であったかがうかがい知れます。
 
■真宗にとどまらない得住の探求心
 この常徳寺経蔵内には、中央に位置する輪蔵に加蔵された黄檗版大蔵経のほかに、膨大な数の典籍類が存在しており、壁面に沿ってぎっしりと並べられた本箱に収められています。その内容は、真宗関係の仏典のほかに、法華経関係の仏典、「南都六宗」が依拠した教学に関する仏典や、真言宗関係の仏典なども多く、真宗にとどまらない広範囲に及ぶ仏教学研鑽に取り組む得住の姿がみえてきます。
 
■「内外十六題記」に見える得住の姿
 そのなかで、得住が真宗に属していることを明確に示す史料が、常徳寺が所蔵する「内外十六題記」です。この史料は、「五ヶ条の誓文」、そしてその誓文に付された明治天皇の宸翰の写しや、熊谷県下中山道本庄駅平民大内某が太政官左院に提出した「建言書」の写しなどがまとめられており、常徳寺にある典籍類でも政治色の強い史料と位置づけられますが、なかでも「分離之御書」は、当時の真宗が置かれている立場や、得住など真宗に携わる者達の状況が読み取れるものといえます。

■厳如が記した「分離之御書」
 この「分離之御書」は、真宗大谷派第21世厳如が明治7年(1874)に記したものですが、厳如は弘化3年(1846)に継職の後、幕末維新期には政府への軍事費献上や北海道開拓事業への参加など、維新政府と東本願寺との関係構築に努力した人物です。また、明治5年から翌年にかけて欧州を視察して、同9年には上海に別院を設置するなど、布教活動を広く展開した人物でもあります。
■その時、政府は
 明治初年に政府が推進した国民教化政策は、当初は仏教勢力を排除する形ですすめられましたが挫折してしまい、その結果、明治5年に仏教勢力を取り込む布教体制として教部省が設置されます。この設置を希望していたのが仏教側であり、特に浄土真宗でした。そして、国民教化実現に向けて教導職制度が設けられ、神官や神職は勿論、僧侶や俳人、歌人までもが任命されます。つまり、これまで虐げられる一方であった僧侶が教導職として政策を実践する側に立ったといえます。実際、明治7年段階において教導職七千余名のうち、僧侶は三百名を超えていました。この教導職の全国統轄機関が大教院でしたが、もともと性質の異なる神道勢力と仏教勢力の意見対立は深刻で、特に浄土真宗の反発は強く、地域においては教則に基づかない勝手な説教を行うケースもみられました。
 
 厳如も「分離之御書」の中で、神道や他の諸宗とは分離しての真宗独自の布教活動を唱えますが、他と一緒に活動すると「聴聞のともからもかれこれ混淆」してしまうためだと、理由を述べています。一方で、「しかりといへとも神官諸宗の和合ハかならす失ふへきにあらす」とも述べ、このような考えを理解しないで分離に反対する者達は、「予カ同志の族にあらす」と強く批判しています。結局、浄土真宗は大教院を離脱し、明治8年には神仏合同布教禁止の令が出されて大教院は廃止され、同10年には教部省も廃止となります。
 
■得住と玄寧が地域に果たした役割
 このような経緯で、厳如の書が意味するものは何でしょうか。これは、このような書を門末へ出して真宗が体制からの離脱を目指す理由を明確にすることによって、教団組織の統一を図ろうとしたことが考えられます。得住やその息子の玄寧が、この厳如の書をどのように受け止めたのかは定かではありませんが、明治初年の廃仏毀釈が吹き荒れる中で地域の代表者として抵抗したのは真宗末寺僧であり、このような地域の核ともなり得る者達を教団側が強固に束ねようとしたことは事実でしょう。そして、得住や玄寧がこの書を重く受け止めていたことは常徳寺に保管されていたことからもうかがえます。前述の『富来町史』には、「富来地方の真宗寺院が寺院としての形態を整えてくるのは中世末か近世初頭からである」とあり、また富来に位置する真宗寺院の一覧がありますが、やはりこの地域を論じる際は、真宗寺院を抜きにして語ることは困難であることがわかります。
 
 常徳寺に所蔵されている典籍類を十分に分析し、得住や玄寧が地域に果たした役割を解き明かしていくことによって、明治初年にこの旧富来地域で生きた人々や、典籍類の購入を支援した人々へ思いを馳せることが可能になるのではないでしょうか。(宮下)
 
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